
生まれたての赤ん坊も
あらゆる動物も、当たり前のことですが
本能的に死のうとはせず、
生きようとしています。
つまり、
「本能」は“生きる”方向へ向かっているのです。
ただ、「本能」はそうであっても
さまざまなことが勃発するこの世の中、
自分自身の「思考」や「感情」は、生きることに対して
抵抗を示す場合があるかもしれません。
「思考」・「感情」・「本能」を色で見てゆくと
「青」・「黄」・「赤」となります。
考えて考えて考え抜いて
あーでもない
こーでもないと
安全対策をしたり
最善策を捻り出したり
冷静に物事を考え
答えを導き出すことが
青の「思考」
楽しい!面白い!
楽しくない!面白くない!
ワクワクしたり、うろたえたり
気持ちに左右されながらも
好奇心をめぐらし
物事をキャッチするのが
黄色の「感情」
やるぞ!行くぞ!進むぞ!と
エネルギッシュに大地を踏みしめ
人や物、事柄に愛や情熱を注ぎ
何かを考えたり感じたりする前に
もうエンジンをかけて、動き出す行動力こそ
赤の「本能」
「青」・「黄」・「赤」と
どれかが一番ということはなく
すべてのバランスが大事なのですが、
いざ、“生きる”ことにフォーカスしてみると
やはり、血の色・肉の色・火の色
赤という色からは
生きるための熱量が感じられるものです。
本能的に生きることが
命あるものの自然の摂理。
やがては命の終わりがくるとしても、
生きるために生まれてきたのなら
生きることを諦めてしまうことは
本能は求めていないと言えそうです。
時代の進化と共に、日常生活の利便性、
仕事面においての可能性が広がり
めざましく発展や進歩をしてきたのは確かなことですが、
だからといって、必ずしも
“生きやすさ”に繋がっていない裏腹な面も否めません。
生きているだけで、
お金がかかったり、気をつかったり
一筋縄ではいかないものです。
インターネットが広く行き渡ったことで
多くの人がSNSを利用するようになり
発信したいことや宣伝などができることから
人によっては仕事が円滑に進んだり、
人と人が繋がれることで、新しい絆も生まれますが
叩く・バズる・炎上する
といった、新たな現象により
昨今、そういった
目の前には見えない、
強く激しいエネルギーに押しつぶされ、
自らの命を絶つという悲劇も起こっています。
永遠の命を求めた古代人は
予想もしていなかったことでしょう。
赤は、むかしから魔除けにも使われた
生きるために使われてきた色です。
もしも、死にたいという気持ちが
生きたいという気持ちより強まったならば、
魔除けにするように、生きるための小道具として
赤という色を使うことは可能です。
赤の持つエネルギーに期待できることは、
自分の本能を目覚めさせるという点です。
赤は血の色
血の巡りを良くしたいのです。
赤は肉の色
肉体を動かしたいのです。
赤は火の色
燃えてほしいのです。
血の巡りを良くするものを食べるとか
運動するとか入浴するとか
そういったことをして
血流を促すこともいいですし、
肉体を動かすのは、運動はもちろん、
行きたいところへ行くとか
散歩してみる、その場でバンザイする、
それだけでもいいかもしれません。
むかし、生徒さんが教えてくれたのですが
運動は“運が動く”と書いて“運動”だから
運動することは“運気アップ”に良いのだと。
血の巡りの赤、肉体を動かす赤、それでは、
燃える赤とは、どのようなものでしょうか?
火というところで、キャンドルに火を灯し
瞑想するというのも良さそうですが
死にたいときというのは、
脳はポジティブに働きにくいため、
良いイメージを抱けなかったり
邪念により、思いつめてしまう気持ちに
拍車をかけてしまう可能性もあります。
瞑想は、精神にとって素晴らしい行為ではありますが、
目を閉じても、明るさを感じられるように
なってからのほうがいい場合があります。
火を灯すのは、キャンドルではなく自分自身。
生きる気力がないのだから
燃えるような、そんな情熱があるわけない、
そんなふうに思われるかもしれませんが
死ぬのに、少しの気力もいらないわけもありません。
ちょっぴり残った気力に火をつけることができれば
その炎は消えるどころか
あちこちに点火することが可能になります。
情熱の火種は、小さくていいのです。
もちろん、大きくても。
そういえば、話題のあの海外ドラマ、
まだ見ていなかったけど、見てみようかな、と、
そんな何となくの気になることだったとしても
全編見ていくうちに元気を吹き返したり
やる気のキッカケになるような名台詞に
出会えるかもしれません。
生きることに前向きでなくなってしまったら、
最後に、あれやっとくか、ここ行っとくか、
あの人に会っておくか、と
軽い気持ちで、無理強いしない程度に行動してみると
動いた分、進んだ分、
見える景色が変わった分、
心にも何らかの変化を
生じさせることが可能になります。
あとは、もう、
そんなの通用するわけないじゃん!といった
内容だと思われそうですが
今一度、自分のエネルギーを見直してみる、
信じてみるのです。
忘れかけた情熱は、いつでも取り戻せるからです。
自分のエネルギーだから
自分次第ということ。
やりたいことも、行きたいところも、会いたい人も
いろいろ浮かべようとしても、心が不安定なら
頭の中で滲んで見えないかもしれません。
そんなふうに、見えないものが多すぎてしまったら、
自分だけを見るのです。
誰かとか何かとか、
良かったこと、思い出したくもないことも
ぜんぶ除外してカットして
自分にだけに意識を向けて
自分に向けて、自分に全力で
こう言ってみたらどうでしょうか。
「生きてみれば?」
と。
その先は、きっと本能が
動き出すのではないでしょうか。
他人の理性や感情では、自分の心も体も
駆り立てることは難しい。
線香花火の火の玉が落ちるのは
花火にもう火が残っていないからです。
わたしたち人間には、最後の最後まで
エネルギーが残っています。
そのエネルギーを命の終わりのために使うよりも
生きるためのエネルギーに使ってみる価値は
大いにあると思うのです。