色彩心理学的教育「色による道徳の時間」で学べること

メディアのニュースで、壮絶ないじめによる痛ましい事件を取り上げていることがあります。「こんな悲しいことが二度と起こらないように」と、そんな思いが伝わってきます。

しかし、いざ知った多くの人たちに、いったい何ができるのか?と考えたとき、「胸が痛い」で終わってしまうことが多いのが現実かもしれません。だからと言って、いじめをなくすことはできないと諦めるのではなく、いじめをなくすという考えのもっと前、人と人が繋がり合うことの素晴らしさ、優しさについて、しっかりと把握しておくことで、いじめの発想が出ない思考を育むことができたら、いじめがいかにナンセンスか、人として最もダサいこと、情けないこと、最低なことなのかが理解しやすいのではないかと思う部分があります。
机上の空論、綺麗事に聞こえるかもしれませんが、明るい希望に繋がる理想は持っておきたいもの。ひとりでも多くの人が優しく接することが基本姿勢であるという感覚を持つことができたら、平和で生きやすい社会になるのではないでしょうか。

わたしが子供の頃にもいじめはありました。毎日いじわるするような、身体に危害を加えるような、現代のニュースで取り上げられるような陰気な悪質さはなかったように感じますが、いじめはいじめ。いじめられた側にとっては今でも思い出したくない嫌な思い出だと思います。小学校の当時の先生は「いじめは、あってはいけません」と言うだけで、“なぜならば”という理由は語られませんでした。子供ながらによいことではないと感じていても、相手の気持ちになれるほどの共感能力も持ち合わせていなかった当時、先生が「いじめは、あってはいけません」と口にする言葉は、誰がいじめられているのかを明確にしているだけで、むしろいじめられている子が晒されている印象さえありました。積極的にいじめに参加していたわけではないけれど、助けようという発想が持てなかったことは、いじめられている子からしたら敵であることは同じだったのだろうと、今ならわかります。

小学校で優しさについて、思いやりについて、助け合うことについて、もっともっと子供に考えてもらって、温かい人間関係を育む努力を大人がしていくことが本当の教育ではないか、と(学校教師でもないのに何ですが)思うことがあります。思うのは簡単で、実行するのは難しいので、きっと先生方の中にも歯がゆい思いをされている方もいらっしゃるのだと思います。

道徳という謎の時間がありましたが、何をやったのかまったく覚えていません。勉強しなくていいからラッキー!くらいの認識でした。
小学校の道徳の時間で、人に優しくする、人を助けることの素晴らしさ、優しくするとどんな気持ちになるのか、人助けができるとどんないいことが未来に待っているのか、そんな話を掘り下げたり体感できていたら、もっと優しくすることに積極的になれたのかな?と思ったりもします。一方的に先生からの話を聞くだけではイメージしにくいと思うので、実践的なことをしてみるといいのではないかと思います。たとえば、物を落として、拾ってもらって笑顔で渡されたとき、どう感じるかなど。わるいことをしちゃダメだ、と言うことも大切だと思いますが、否定の強調だけでなく、温かい気持ちになれるコミュニケーションを実践していくことで、人を思いやることが自然なことだと認識しやすくなるのではないかと思うのです。

個性の違いや育った環境によって、考え方や物事の捉え方が異なるのは当然のことかもしれませんが、それでもしっかり優しさについて学校で共有する時間が持てれば、何か印象に残ることはあるのではないでしょうか。

そこで、より印象に残すために、色を使うことを推奨したいと考えています。色は視覚経験として記憶に残り、脳に記録できるからです。

たとえば、コーラルという色には“みんな仲良し”、“人類みな兄弟”、“助け合って暮らす”といった色の意味があります。コーラルの美しい色を見ながら、“みんな仲良し”、“人類みな兄弟”、“助け合って暮らす”の意味についてコミュニケーションをとることで、色の印象と意味の内容が脳へ同時に情報伝達されます。言葉として耳で聞くだけの情報よりも、人は視覚による情報をキャッチしやすいので、色を通して体験することで、“みんな仲良し”、“人類みな兄弟”、“助け合って暮らす”ことの大切さが記憶に残りやすくなります。

わたしが小学校6年生のときの担任は、それまでの先生とはかなり違うタイプで、先生のアイデアでほかのクラスではやらないようなことを実践する機会をつくってくれました。中でも、ヘレン・ケラーの偉大さを知るうえで、「見えない、聞こえない、話せない」について、言葉による説明だけでなく、実際に感覚の一部を感じる体験をさせてくれたのです。これは非常に強い印象として今なお記憶に残っています。

それは、校庭の鉄棒のある場所から、いっさい言葉を発しないで、目隠しをした状態で自分たちの教室に戻る、という実践です。耳は聞こえますが、実践する最中は話すことと見ることは禁止という条件で、先生の合図でひとりずつ少し間隔を空けて始めていきます。そんな体験を授業中にさせてくれたのです。

時間をかけて何とかしてクラスメイトみんなが自分たちの教室に戻れましたが、わたしは、一度間違えて隣の教室に入ってしまい、何事かと笑われてしまいました。耳は聞こえますから、笑い声によって間違えてしまったのだと気づき、慌てて出ようとしますが、目隠しをしているので慌てていても動作はそう速くはありません。恥ずかしかったので、壁をつたって早く出たいのに出られたかどうかもすぐにわからない、このもどかしさによって、ものが見えることのありがたみを心から感じることができました。もちろん、一度の体験でわかることはたかが知れていますが、それでも一度も体験していないよりは貴重な経験。その後の考え方に少なからず影響していると実感しています。

今の時代、授業中にそういうことはできないのかもしれませんが、できるのであれば、できることから少しでも、ただ言葉で教えるだけではなく、実際に体験してもらうことを積極的にやるといいのではないかと思うのです。ヘレン・ケラー体験は視覚を遮断しての経験でしたが、それでも忘れられない体験として残っているので、実体験ほど心に残るものはありません。何を学ぶためにやっているのか、その意味を明確にした経験は貴重なものとなります。

CPAAでは、色の意味を通して、その意味についてじっくり話すことを大切にしています。

小学生、中学生の時期に、色を見ながら色の意味を知り、その意味について話す時間を通して感性を育み、人を思いやること、自分を大切にすること、そういう内容に触れることができればと考えております。
青からは信頼について考え感じていくことができ、ピンクからは、ありのままの自分の素晴らしさについて触れることができます。
教育関係者の方々で「それって、どういうこと?」と、少しでも気になっていただけましたら、いつでもご連絡をお待ちしております。

子供を対象に塗り絵のカラーセッションをしたとき、塗った色を通してリスペクトしただけで、最初に会ったすぐには目を合わせてくれず挨拶もしてくれなかった子が、帰る頃にはキラキラした目でこちらを見てくれて元気よくお別れの挨拶をしてくれました。ほんの数十分で人の心を変える力を、色は持っているのです。

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